おかゆはむらさき

だいたい酔ってます。

他人の「これはマジだから」は信用して良いものか

いつもいるコンビニの店員さんに、

その日の互いのコンディションで腹が立つ時がある。

電車に乗っている人の良さそうな他人にたまらなく腹が立つ時もある。

かと思えば、

絶対キレた方が良いだろうと思う場面で、

「まあ、こんな時もあるよね」と馬鹿みたいに心穏やかにスルーできる日もある。

本当に人間は勝手だ。

他人も勝手だし、自分も勝手だ。

家の中にこもっている訳にもいかない年齢なので(お金のある人は別。羨ましい)

どうしても社会に出て他人と接する事になるのですが、

そうするとどう考えてもタイプの違う人とか、考え方が違う人と

会話をする状況が生まれる。

貧乏性なのか、そういう人と会話をする時でも

どうせなら何か収穫が欲しいと思ってしまう。新しい何かが知りたいのだ。

自分だけで生活していたら絶対に知りえない考え方や感情を知りたいと思うのだけども

さて、何を話せば良いのやらと考えてしまう時がある。

新しい何かを知りたいと思いながら、「絶対に盛り上がりそう」な話題を探してしまうのだ。

いや、別に良いのだけど。矛盾ですね。

全員が自分と同じような感情を持ち合わせているかは不明ですが

そこにいる全員がこの場が盛り上がりさえすれば!という一体感を感じる瞬間がある。

その結果として盛り上がったその瞬間は感動モノだ。

あくまで自分の場合でしかないですが、

それでも自分は、少なくともその瞬間に何かを得ようとはしていて、

別に何かを諦めている訳ではありません。

くだらない何かからも何かを拾いたいと思っているんです。

その上で、

「その状況を楽しめる自分」

もしくは

「それすらどうでも良いくらい何も気にせず自分の楽しいと思える状況」

を作りたい。

社会に出ると怖いほどに

待っているだけじゃあ、自動的に刺激的な事はそうそう起こりません。

「適当に生きる」=「諦めて切り捨てる」

にはしたくないけれど、それが案外自分にとっては難しい。

面倒くさいですね。

いつでも、全力で自分と向き合っていたいんです。

最近、適当に笑ってしまう自分がいるのと、

適当に笑う大人が多いなあと感じるのです。

ただ、その適当な笑いに救われる瞬間もあるから難しいなあとも思うのです。

でも、世の中のバランスをとるために生きているのではありません。

明日も楽しみましょう。

 

おかゆ